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第二章.......チベットはマンダラの宝庫


 チベットの村の道々には、白、赤、青、黄、緑の色布に教典が刷りこまれたいた経文旗(タルチョ)が、あたかもそこにあるのが当然のようには青空にはためいている。最奥の神秘である五大色が、ここではありふれた日常に溶けこんでいる。このチベットのアルチゴンパ(寺)には、極めて純度の高い極彩色の金剛界マンダラが存在する。とくに大日堂と三層堂の二階は、金剛界マンダラの宝庫である。アルチゴンパの、その三層堂は日没から夜明けまでの暝想堂になっている。

 初想は日没、二階は夜中の暝想、三階は夜明けと決められている。三層堂のなかは昼間でも暗くろうそくで照らさないとよく見えない。暝想は、思索するのとは違い、雑念はもとより、思考の網を除くことが大切だ。肉体の緊張と俗的束縛をはなれ、意識を集中し、物質に食らいつく低我の動きをゆるやかに止める。こうして、微かに目に見えるのは金剛界マンダラのみである。金剛界マンダラは、人の側から仏の側へと境地を拡げる宇宙と変身する。ろうそくの炎に、白い主尊がほのかに瞼に浮かぶ。彼は「無」になるのではない。主尊の光に合一することに意識を集中する。光の波動(エネルギー)が徐々に全身を包み始める。彼はマンダラに向っている。自己の内宇宙の写し絵としてマンダラに対座したのであり、彼の得る境地は、彼の自身の内奥の力によっている。マンダラは悟りの導きである。 しかし、マンダラ自体、それは描かれた物だ。空域の純粋な光そのものは描かれたマンダラから来るのではない。空域の光を自己の波動で合一し、吸収し、心の内に見るのである。たった独りで、彼は、宇宙に普遍する光のリングに暝合させようとするのだ。己れと神の波動が合一したとき、彼は、青紫の大空に黄 金に光り輝く空域の光を観る。それが、真如の光だと知り、深い満足感とともに、己れの本性もまた空性にあるという深い境地を得る。しばらく、神仏に抱かれたような安らぎに包まれる。

 「金剛」とは「最高の」という意味で、釈尊の悟りを開いた場所を「金剛界座」というように不動の境地を意味する。サマーディ(三摩地)とは、不動の存在を確信することであり、それは、もう決して彼を迷わすことのないものだ。正しく定にいる(正定)。このことは釈尊の八正道の八番目にあたるが、この「定にいる」の定とはサマーディの中国語訳である。「定に入る」、それは、暝想の極致ということだ。 瞑想の極地、それは、空性の体験であり、彼の意識にはっきりと自覚される神仏の光なのである。なぜなら、彼は、神仏から流れてくる光そのものを「心眼」で観るからである。

仏の世界は「空」の場、そのものなのだ。般若心経の解釈では「空」は「実体がない」つまり、相がないと学者は解釈するが、実は心の目で見ると全く反対となる。空は、全く形なきものではなく、「光」(クリアーライト)で成り立ち、実は形もあり、動き回わる。それがマンダラなのだ。無と空 そもそも、「無」を対象として、それと合一することはできない。「無」とは、主語ともなりえず、また、一切の形容を受けつけない。空性はわれわれの意識と連続しており、万象がまた連続しており、一切が一つの空性(マンダラ)のなかに息づいている。なにもないことを無というのでない。存在のなかに無がある。物質と反物質がぶつかり、一切が消滅したあとでも、すべて、エネルギーに転換されるにすぎない。そして、エネルギーは再び、物質に吸収されて冷え固まる。 

 ところで、彼は、はっきりと実在の「光」を観相する。それは現実の光線ではない。そして、しばし己れを忘れる。そういった体験から、空性は「無」ではなく、輝き、あるがままに自在に運動する実体なのである。激しく活動する光り・・・マンダラは、その所在地を「空」の場に置く。空界がイコール、そのままマンダラなのだ。 
弘法大師・空海は「密蔵深玄にして翰墨に載せが足し。更に図画を仮りて悟らざるに開示す。」(請来目録)と述べているが、まさに、言語を超越した光の場といえる。マンダラはわたしたちをも包含した神仏の世界、それは広大なる、「空」である。そこには、実在の「光」があり、それは振動の乱舞であり、エネルギーに満ちている。無限のエネルギーの波動であり、永遠に尽きず、宝石のような美しさに溢れている。 

 では、どうして「空」が、「無」と勘違いされたのだろうか。 「空」の原語、「シューニヤター(sunyata)」が、「何もない状態」とか、数学では「ゼロ」を意味するためだ。
「空」とは、あくまでも「有」であり、「無」ではない。それが、「有」であるからこそ、物質界と不二一体だということも可能となる。「無」であれば、そこに語られるものは何もない。「無」からは、なんの投影も、浸透も、共振も、一体となる対称もないと言わなければならない。そもそも、「無」を対称にしたり、論ずる意味がない。否定するには否定する対象がなければ、否定できない。そもそも、シューニャター(空)は常に認識の対象であるということである。チベットでは、空の体験は菩薩行レベルで、次の段階はプラバースヴァラ(光明)体験とされ、ともに体験されうる階梯である。チベット密教ではシューニャータ体験を高めながら、菩薩行を発展させようとする。一方、プラジュニャー(般若)は、肝心の地点に導く能力ということである。ジュニャーナ(識)の語根は、ジュニャーで、「認識する」という意味である。プラという接辞語が、高めるとか、強調するとかいう意味。まとめると、プラジュニャー(般若)は「認識する能力(徳)を高める」といった意味になり、転じて「行」となる。そこで、空の体験とマンダラの体験は、同じ延長線上にあることになる。ところで、空もマンダラも肉体的感覚器官ではとらえられないという意味では、それは正しい。その意味では、マンダラは目に見えず、鼻で臭いを嗅ぐことができず、耳で聞くことが出来ず、舌で味わうことが出来ず、身体で触れることが出来ない。しかし、マンダラは根源的リアリティであり、万象はマンダラであり、また、あらゆる物質もまた原初のマンダラであることも真実だ。ホログラム的根源があって、物質世界は測定不能の永遠のエネルギーに満ちている。あたかも、クオークは振動でありながら、結果として形となり、微細な色彩と光を放っている。究極の形は、まだ、量子力学も見届けたわけではない。それは、やがて、クオークに赤、青、緑、黄、白、黒の色彩をあて、6つのフレーバーでクオークを説明する。こうして、すべては「有」のカテゴリーの中で語られているということは否定できない。


○ 「空」とは?  

 ニルヴァーナ(一切の迷いから脱した境地)に到達する、つまり、「理」を知るためには、あらゆる感覚器官を逃れているマンダラを覚知することだ。マンダラを覚知を妨げるものは、感覚器官を運動する意識(自我)である。感覚器官は、この世に激しく食らいつく。それが六根が積み上げた執着であり、現世のあらゆる価値にしがみつく、その己れの心(意識)が妨げとなっている。己心はプシュケー(魂)を縛りつけ、なかなか離そうとはしない。執着は、自我の衣のようなものだ。低我の意識を止める。止めることによって、輝きはじめる。限りなく透明で無垢な状態になって、開かれ見えてくる。六根清浄とは、こうした煩悩(分別する意識)を制御しようということなのだ。「空性」は、おのれを溶き放ったとき、舞い降りるように彼の前に見えてくる。それこそ、マンダラなのだ。このことは、釈尊は泥沼に咲く蓮華を指し示すと、次のようにお説きになった。「このような汚い泥のなかにも、このように美しく蓮の華が咲いている。あの美しい蓮華を見てごらん。皆の心の中も苦悩に満ちて泥沼のようだ。しかし、誰もがあの美しい華のような心を持っているのだよ。」
釈尊は、はじめ、生きることは苦であるとお説きになった。それは、自我があるためである。そして、それを泥沼に例えられた。そのなかにも美しく咲く蓮華を指し示された。清浄で苦悩のない世界があるのだよ。・・・と。
 「空」=「マンダラ」は、全く「無」を意味しない。すべてが光でできていて円く、きらきらとさまざまな色に満ちあふれている。なによりも、釈尊が、弟子たちに語った仏界は、「光」と「色」に充ち溢れている。例えば、浄土三部経のひとつである「観無量寿経」は、壮大な光り輝く極楽世界が説かれ、そこには華麗な神仏の世界が展開するし、なによりも無量寿仏とは、光に他ならない。般若経では、「本来完全に清浄である」とか、「心は本来清く輝いている」といった言い方が用いられる。これは、心が世界の根源であるという仏教教理の基本になっているのである。

 「そのとき眉間から光を放たれた。その光は金色に輝いて普く十方の無量の世界を照らし、世尊の頭上に還って来てとどまり、黄金の台と化した。その形は須弥山のようであった。十方の仏たちの清らかなう美しい国土はすべてこの光のなかに現われた。」

・・・とあるように、十方の無量界、須弥山とは、かの世界とは、すなわち、光り輝く「空域」ではないか。 
また、「チベットの死者の書」(バルト・ソドル)では、空をこう説明する。

「何もない」という「空」としてではなく、「妨害されず、輝き、血沸き肉躍り、至福に満ち、知性それ自身としてみなされる空である」


・・・、とあり、「空」は輝く明光(クリアーライト)そのものであり、しかも、意識と離しがたい。これが無といえるだろうか。否、これこそ実在なのだ。
「空」と言おうと、「蓮華」と言おうと、「須弥山」と言おうと、それは苦から遠い世界なのだ。

○空と縁起

 龍樹(ナーガールジュナ)の「中論」では、「縁起」という言葉が主要な言葉であるが、「縁起」とは原語「プラッティーヤーサムパーダ」で、直訳的には「縁起」で正しいが、中論では、「空」、「中道」と同じ意味で使われている単語である。釈尊の「ダンマ」を後世的意味付け加えたものが、龍樹の「縁起」ということになる。そもそも、「プラッティーヤーサムパーダ(縁起)を、われわれは空性という。その『空性』は仮の名づけであり、それは『中道』と同じである」(中論24)。「縁起」は、すなわち「空」であり、かつ「中道」である。般若心経の「空」と、「縁起」とは言葉を入れ替えることさえできるほど同一なのである。また、縁起とダルマが同一のものであることは、中論、冒頭の偈頌(げじゆ)に、明白に記されている。「滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来りもせず、去りもしない縁起は、ことばの虚構を超越し、至福なるものであると仏陀は説いた。・・・」ここで知ることは、仏陀の説いた・・・である。それは、「縁起」とか、「空」とか、「中道」とか、仮の名を付けているけれども、それらは、すべてブッダの説いた「ダルマ」(後節)のことなのである。


 そこで、「中論」は、鳩摩羅什(くまらじゅう)(344ー413)が漢訳した。漢訳と言うものは、単語を音だけとらまえて文字にするのではなく、原語がもつ意味に近い漢字を当てはめる。そのため、そこに訳者の意味論的な解釈が必然的に入り込んでしまう。そこで、十分な理解者でなければ似て非なるものができあがる。漢訳経典は、つまり、訳されたときから中国流解釈が入り込む余地がある。多くの経典が真書か、偽書なのかは別として、原典とは違うものであることは知っておく必要があるだろう。日本では経典をありがたがって、なにか経典にしがみついている人が多い。「中論」が「言葉の虚構」をなんども繰り返し、思惟を戯れだとする以上、経典を読むことは遅かれ早かれ放擲するべきものだろう。なぜなら、「空を会得する人にはすべてのものが会得される。空性を会得しない人にはいかなるものも会得されない。」(24ー14)とするからである。そもそも、言葉を超越している存在を、言葉で化構することで、かえって妨害となる。このことは、第一章の冒頭でも紹介している。つまり、龍樹(ナーガールジュナ)は、ダルマを言葉で語ることはできない・・・と教えているのである。つまり、言葉で書かれた経典をはじめとして、もろもろの宗教書はガイダンスであるにすぎないことを示している。



○「AUM・・・オーム」とはなにか?


 チベットの文化圏には、道々の路肩に「オーム・マニ・ペメ・フーム」と書き込んだマニ石を見かけることができる。チベットの村々に入る路上の至る所に置かてれる。これは、観音を字音化した6文字の真言といわれている種子マントラ(ビージャ・マントラ)だ。チベットの人々はマニ車を回しながら一日唱えつづけるマントラがそれである。「チェンラジー(観音)」のマントラ(真言)といい、魔よけになる。また、仏の身体を象徴し、「空」の明光の様子を表現している。すなわち、「オーム! 蓮華のなかにまします宝珠! フーム!」という意味を持つ。
さて、この真言だが、神仏の明光の形状を象徴している。“蓮華と宝珠”がそれである。さて、次にオームとは、ブラフマンを表す字音(マントラ)で、[AUM]とつづられる。
ヒンズーイズムでは、Aがヴィシュヌ、Uがシヴァ、Mがブラフマンで3音融合して、三体結合を示し、すなわち、創造、維持、破壊を一音に含む。
 インドの古典、マンドウヤ・ウパニシャッドでは、オームは過去、現在、未来を通して存在する時間、空間を越えた無限の存在であり、オームこそすべてとされる字音なのだという。また、オームはプラーナの流れを呼び込むパワーがあるとされる。オームは聖音とされ、「空域」に入る不思議な力があるとされる。この幻妙な音声波動はトノスコープという音声波動を識別する機器で測定すると画面に完全な円がスコープに表れる。チベットの僧侶たちは、始め低音で唸るように始め、声明はやがて不思議な倍音を何重にも発する。どこまでも高い倍音がうねりのように揺らぎ途切れることがない。不思議な音域があたりを包み込む。同時に自らを円なる光の当体とする作用があるばかりか、その振動音は、どこまでも貫くような響きをなし、それは、マンダラの発する響きに合一する。マンダラは振動し、右に左に、羽音をたてながら猛烈に回転している。マニ車はその回転の象徴しているかのようだ。

 過去、「AUM」はそれだけで大哲学となっている。あなたは、すべての大乗経典(法華経等)の冒頭は、オームから始まっていることを知っているだろうか?  (日本では”おん”となっている)
 日本は阿字をもって全体的真実を示すという「阿字即法界」説がこれである。阿は、このAUMの当て字である。

 「阿字即一切」という阿字こそ、すべてのものの根源であるということで「オーム」であることに疑問はない。
 阿अहूँ のサンスクリット文字がマンダラの中尊になる。インドの哲学ヴェーダでは「アーカーシャ(空)である空間にプラーナ(気)が働きかけて宇宙が誕生した。そして、AUMこそプラーナの根源だ」と説いている。 古代インド人は、AUMのことをプラーナの根源という意味で「プラナヴァ」と呼んでいた。原初の振動音「AUM」の響きは根源的な真言(マントラ)であり、宇宙はすべてが、「AUM」の振動によって開始したとされる。原子集団は宇宙に光速度で散らばり、さまざまな振動に変化していった。が、すべては光速の振動の現れであり、今もその現れであり、未来もまた、その原初の振動の現れである。すべての原子はひとつの原初の爆発から生まれ、いまも共振している。
 
マニ石
        マニ石

 「オーム、蓮華のなかにまします宝珠」・・・の6文字マントラは、チベットで「マニ」と通称されている。「オン・マ・ニ・ペ・メ・フン」の六字真言の、「オン」=「オーム」は「空」にあってマンダラ(原初)を示す。そもそも、マニぺメが観音を指し現わし、マニで如意宝珠を、ぺメで蓮華を意味する。さらに、マニで男根を、ペメで女陰を意味をもち、ブラフマンがアートマン(シャクティ)と結合して世界が生まれたという創造の真理と、アーナンダ(大楽)の意味も含まれている不思議なマントラである。
また、これらの文字、ひとつひとつが各々、色光を有している。また、六道と対応していて、流転再生の業を浄化する功徳があるとされる。チベット人は誰であれ、観音を無類の本尊として尊崇し、その真言である「マニ」を唱える。昔から、「マニパ」と呼ばれる行者がたくさんおり、昼夜を問わずマニを唱える。チベット人にとってマニを唱えることは、ごはんを食べることと同じといっていいほどである。

オン 天界
阿修羅界
人間界
畜生界
餓鬼界
フン 地獄界


 このマントラは「AUM」の原初の振動と「蓮華と宝珠」という2つの要素でもって、ほんとうはマンダラを表しているだろう。そこで、マンダラが魔よけに使われるのはこういったわけで、聖なる領域を内包する作用がある。現在でもマンダラを地面に米粒などで描くことが慣習的に行なわれているインドでは土壇がそもそもマンダラという原語であった。据えマンダラは、日本では大壇などの修法壇に変化している。日本の密教寺院の修法壇はマンダラの聖域をつくる法具で、マンダラの形状を実によく整えている。驚くべきことに、修法壇にはかならず蓮華と宝珠が添えられている。 


○空域の音と構造は無限音階 


 彼がマンダラを「空」だと知ることはすなわち、彼自身が意識に溢れる振動であり、発光の反射体(かたまり)であることを知ることだ。偉大な空域は実体があり、その光のかたまりが彼自身に輝きわたるとき、彼はすでに空域の一部にある。そして、「オーム」音が同調する。響く滝壷の音のように、それは神々しい。そうした音もまた中心なるヴァイローチャナから轟いている。そうした音もまた仏の現れである。
音楽的には無限音階であり、音律に縛られることはない。

エンライトメントは、それゆえ、彼が自分自身がマンダラであることを知ることである。インドの哲学・宗教がこれを体感し、これと合一することを究極の目的にしたのである。
原子は固い物質(粒子)からからではなく、陽子と電子が光子をやりとりして結合し、構成されている閉じこめられた光だ。万物の力は、光の乱舞する世界であり、力と言われているものも、実は光の変化したものにすぎない。

 その光の性質は、5つの構成要素がある。その根源に、陰陽の滅した中心がつねにある。中心に永遠なるとがあり、その周辺に還のように4の倍数になって、世界が生まれてきた。このことは、あらゆる創造神話の過程に見いだすことができる。その4つの波動は光の場に一切が起因するのである。それが、4エレメントというものに相当する。そこには古代から神聖なる数の秘密が隠されている。4は神秘の数として、宗教的文献にさまざまに登場することになった。こうした数秘はマンダラから見いだすことができる。「空」は一切のそうした数秘が表れでる場である。ピタゴラスなど、いわゆる神秘科学はすべてマンダラの数秘的表現といえる。


○光芒と曼陀羅 


 胎蔵界曼陀羅の中台八葉院の中央は大日如来という。大日如来のサンスクリット語は「Mahavairocana」で、大光明遍照と訳される。vairocana(ビルシャナ)の本来の意味は、「光を普く照らす」という意味だ。華厳経ではヴィルシャナ如来といい、「光の仏」という意味で、宇宙そのものの根源的振動が「光」であることを暗示する。法蔵は、「妄尽還源観」で、人間の本性も「自性清浄円明体」といい、もともと清浄で円い明るい本体であるという。円く清浄な輝く光り、すなわち、これは円なる光り、「光輪」「チャクラ」である。すなわち、人間の微細身(コーザル体)も光であるが、人間の精神の本性も丸い光である。また、弘法大師空海は、「十住心論」の第十住心で金剛頂経を引き、マンダラを次のように示している。

「各々、五智の光明峰杵(こうみょうふしょ)より、五億倶ていの微細の金剛(不動の光)を出現して虚空界に遍満す。」 

 大日如来は光の根源であり、すべての諸如来菩薩をを躍動せしめる原初仏である。こうした原理を「一切仏即一仏」という。大日如来を囲む諸仏(4如来)は根本仏の諸相であり、現象へのプロセスである。それゆえ、マンダラの中央の根本会は、極めて重要な秘密の場である。五億の微細な光体を、この一珠に包含する。中央のフォームは実は、一切のクローン的入れ子細工のようにすべての光に引き映されている。それゆえに、どこであれ一つの光をとれば、一切の光の像とその体形が無限に再生できる有産性をもつ。チベットのテキスト、ロンチェン・ラブジャンの著、『万天の暗雲を晴らすと呼ばれる書』には、マンダラの内部を次のように語っている。

 「マンダラの内部は『意識の自然』に内蔵された5つの原初的な智恵をもとに5つに分割され、それぞれが違う色彩のモードを持っている。だが、実際にはその分割で静止してしまうわけではなく、どの部分も5つに分割され、この分割過程はどこまでも繰り返されてゆく。だから、マンダラの内部はふつうの意識が数えあげられるような構造を持つのではなく、無限小の差異で埋め尽くされていることになる。」(中沢新一「雪片曲線論」より)

 マンダラの内部は無限のクローン構造であり、そのクローン的構造体は1つの円のなかを覗いてみると5つ(1と4)に分割された構造が見え、また、その5つに分割された1つの円の中をとってみると再び、その構造が表れる。その分割された円の一つをとってみるとまた、同様の構造が表れる。と、いったふうに、入れ小細工のように次々とその構造(五智如来の円)が表れ、それは無限に続くというのである。こうしたホログラムの土台というべき構造こそ、マンダラの中心である、成身会(根本界)である。最初の円還から、極小の円還まで、それはたった1つの円還の構造に一致している。もし、最初の円還を「地」と呼べば、その中心は「天」となる。すべては「天地」に収まるのである。こうして、天と地は、マンダラにおいて見いだすことができる。マンダラは餃子のように丸い皮で包まれている。しかし、その皮には行き着くことはできない。大きいのか小さいのか、それは外部からも内部からも、決してして計ることができない。

「この宇宙の原子核にあたる図がマンダラで、大宇宙も人間という小さな存在も皆、この図形に凝縮されている。」              
・・・・ ケレニー]

○曼荼羅は数学的にも無限性を秘めている

曼荼羅は八葉だ。そこから導かれるのは白銀比である。1:1+√2という比率が隠されている。



八角形の一片と、両側の頂点を結んだ線とにできる四角形は1:√2である。
また、一つとびに頂点と頂点を結んだ線に対して半径は1:√2である。
白銀比の連分数展開は無限である。黄金比とならんで図形的美でも哲学的美でもある。





<第二章完>

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