第四章........
○心のなかのマンダラ
マンダラが球体であることは分かったとして、では、いったいどのようにして見るのだろうか。マンダラの構造はどこに求めるではなく、実は私たちひとりひとりの心の中にある。それゆえに、それを内なるマンダラという。宇宙が無始無終で存在するごとく、マンダラはあった。
弘法大師・空海は般若心経秘鍵のいわゆる大網序のなかで、きわめて重要なことを述べている。
「それ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し。真如、他に非ず、身を棄てて、いずくにか求めん。迷悟、我に在れば、発心すれば、即ち至る。」
弘法大師は真如、すなわち、マンダラを心のなかに求めなくて他にどこに求めようというのか、と言う。ここで発心即菩提(ほっしんそくぼだい)をお述べになったのである。
マンダラはすべての人類ばかりでなく、ありとあらゆる現れに刻印されている。マンダラは人間が図画として、意図的に構築され描いたものではなく、もともとマンダラは心中に自然(じねん)にあったものといえる。
こうして、マンダラの本籍はどうも、「空」の世界にあることは分かってきた。「心の中の多宝塔」とは、こうした次元のことなるであろう空の世界の多重構造を指している。三次元は四次元の投影であり、四次元の投影は恒に三次元の立体となって立ち表れる。立体を投影する四次元空間は、どんな断面も立体であるから、その空間も立体には違いない。しかし、その立体は不思議極まりない。そこは光の粒子(球体)ですべてが成り立っている不思議な世界である。宝珠というのは、こうした光の球体をさす。分かりやすく言えば、異次元の光はピンポン玉なのだ。
では、次元とは何なのだろうか?
そこで、四次元の構造物を、三次元の世界から眺めるとどういうことになるのか考えてみよう。一次元は、点だけの世界だ。二次元は、平面の世界で、縦軸と横軸の世界になる。
○四次元の球体は不思議な挙動を見せる
立体の世界は、三次元になる。X軸、Y軸、Z軸の座標軸で描ける立体だ。四次元になると、もうひとつの軸が加わる。W軸がもう一本ふえる。この軸は時間とともに不思議な変化をする。
三次元の世界から、この四次元の世界の球体を覗くといったいどういうふうに見えるのだろうか。はじめに、四次元の球を超球体としてみる。この超球体を三次元からみると、どの方向からみても同じ球に見える。
それでは、どこに違いがあるのだろうか?
このことを知るのに、まず超球体の超表面にに色をさまざまに塗り、超球体の中心をかえずに回転させる。すると、全体が、赤くなったり青くなったり時間とともに奇奇怪怪に変化する。
三次元の球ならば、幾ら時間がたっても赤く塗ったところは赤く、黄色に塗ったところは黄色に見える。それは、表面が平面だからだ。
しかし、超球体Iの表面は立体=球である。
超球体の断面は、全体として変体するように見えるが、三次元の立体に投影されているのは、超球体の一断面の部分だ。
だから、全体の超球体はけっして見ることができない。
このことを想像するのは難しいことだ。超球体Iは分割しても、また球である。
つまり、3次元からみるといくつに切っても同じもの=立体の球が表れることになる。
これを、理解するには、二次元と三次元の関係におきかえてみる。いま仮に、二次元の人間がいるとしよう。この二次元に住む人間が三次元の球を見たとすると、それはただの円としか見えない。三次元の人間がこの球に色をさまざまに塗り、これを回すと、二次元の人間は、手品を見せられているように感じるはずだ。平面しか見えない彼にとって、平面の円のなかの色が時間とともに変化するのはなぜかさっぱり分からない。それは、彼は三次元の断面を見ているのである。それは、三次元の裂目のようなものだ。
三次元の球を次々に切ってみると二次元の人間には、やはり円に見える。ただ、次々に大きさが異なっていることは分かる。
これと同様に四次元の球を切ってみると、三次元からは大きさが変化することは観察される。大きさが変化するとは三次元の断面(裂目)からは、その一部を次々に見ていることだ。
しかし、その切断の部位は知ることは全くできない。
四次元で少しも不思議でないことが、三次元からは不思議に感じられる。四次元世界の断面が三次元であるということは、三次元の人間が映画を見るように、この立体の世界を見ているのだと、実際にはこのようにしか例えようがない。
四次元の人間から見れば、たいへん窮屈で不自由な、あたかも牢獄のような世界である。わたしたちが、ある地点からある地点まで、移動する場合、飛行機や鉄道といった方法で移動するほかない。しかし、断面にすぎない三次元の移動は、超立体からみれば移動したことにはならない。地球を超音速機で何周しようと、それは四次元の空間を移動したことにはならない。四次元の移動とは、瞬間的に、この断面を移動することができるし、立体断面から立体断面への移動を意味する。この私たちの住む現象界は閉じこめられた断面に過ぎない。
この宇宙は超立体の部分に違いないが、その投影に過ぎない。
つまり、四次元の一つの裂目のような部分にすぎない。
二次元の人間にとって、円のなかにあるある図形を円を破らないで消してこいというと、それは不可能なことに思える。彼は円の周りをうろうろするばかりだ。しかし、わたしたちは円をいともたやすく乗り越えて、消しゴムでごしごし消してしまうことができる。ところが、卵のなかにある黄身だけを殻を破らずに取り出してこいというと、首をひねるばかりだ。四次元の人間にとっては、それは、なんでもないことだ。立体と立体をまたぐことは、彼らの移動そのものだからだ。もうひとつの座標軸をもっている彼らは簡単にそれができる。
立体と立体とが、時間とともに入れ替わることができる。
実態の空間は、立体と立体の間を自由に入りこむことのできる空間である。
次元を置き換えたばあい、物質はどんな挙動をするのだろうか?
(1) それは、立体が瞬間に消えたり、表れたりする。
(2) 今、そこにあったはずが次の瞬間には違う位置に移動したりするように見える。
(3) あらゆる立体は赤いと見えていたら、青になり、青だと思ったら、黄色になったり、動かないのに、さまざまに変化するように見える。
(4) 球のなかに球があったり、立体が立体を突き抜けるように見える。つまり、その、球のなかの球が出たり入ったり自由に通り抜けてしまうように見える。
5) 球体が、大きくなったり、小さくなったりするように見える。時に、宇宙大になったり、消滅してしまうぐらいに小さくなったりするように見える。
引用文獻−4次元の幾何学・講談社ブルーバックス/中村義作著)
私たちが、夢のなかで遭遇するさまざまな不思議は実はこうしたマジカルな世界に近い。壁を通り抜けてしまったり、激突のいたみを感じないまま通りすぎていってしまい、飛べないはずのあなたが空を飛んでいたり、実に様々な不思議な体験をすることが夢の世界ではある。
ここでは、つまり物質を透過することを平然と行っている。こうした、夢は低我と混在し、さまざまな煩悩とミックスしていることを除けば、それは五次元の世界の出来事と同じだといえる。
しかも、そこでは、時間は感覚的なものとなり、すべてが状態の変化として捉えられる。 絶対的な時間がなくなり、そこは一切が状態の変化となり時間は意識に従属して、相対的なものとなる。
夢の世界では、はっきりと次元の違う世界を経験しているということを私たちは案外見過ごしているのかもしれない。
ホーキングは時空は4次元で考えた球の表面のようなものだという。表面といっても、それは二次元ではない。このことはすでに述べたことだ。時間軸と空間軸は、地球の表面に描いた経線のようなものであって、始まりもなければ終わりもないと言う。時間を実数でなく虚数(i二乗=-1
によって定義される i のこと)と考えると、時間軸も3つの空間軸と同じように扱うことができると述べている。「宇宙にはじまりがあるかぎり、宇宙には創造者がいると思うことができる。しかし、宇宙が完全に自己完結型で、境界やふちを持たないとすれば、始まりもなければ終わりもないということになる。宇宙はただ存在するだけなのだ。だとすれば、創造者の出番はどこにあるのだろう?」(ホーキング)
ホーキングはゆえに無神論者とキリスト教社会では批難された。しかし、そうであるならば、ダライ・ラマをはじめとしてすべての仏教徒は無神論者となる。始まりを認めない以上、創造主はないからだ。つまり、神もわれわれも同じように始まりも終わりも持たない。そこで、ダライ・ラマは「創造主をあえて言えば、それはあなた自身である。」と述べた。ヒンドゥー教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった世界的宗派と、仏教が哲学的に異なるのはこの点である。仏教は創造者を持たない。ダライ・ラマは「仏陀も始めは、人間だったのです。ですから、仏陀はいわば私たちの先生なのです。」と明確に述べている。言わんとすることは、仏陀はクリエーター(創造主)ではない・・・ということだ。
Dalai Bla-ma 4/2000
○マンダラと内なるマンダラ
深層心理に横たわるイメージがマンダラであるということが、ある意味では異常な受け止め方をされる。いままで述べてきたように、ある程度は文献的に例証される。だが、文献的に納得したところで何になるのだろうか。知的欲求が満たされたとして、それが益になるだろうか。釈尊がいわゆる「仏界」を自由に出入りしたし、また、弘法大師・空海が仏界を見て理論を構築しているのは明瞭だが、文章や絵図から得るものはなんだろうか。マンダラが、少なくとも仏の姿と形を描くことを目的とした図だとすれば、わたしたちはマンダラ(密教マンダラも含めて)から、瞬間で本当の仏の世界のイメージ(構造)を直感し、この身体のまま悟ることができるはずである。
たしかに、直截に視覚的に情報を伝えるマンダラは最高の贈り物だ。マンダラがある以上、誰でも悟りの境地に到達できるプロセスがあるとも言える。しかし、この世の意識を放擲したところにあるのだ。
この世の常識は、すべて学習された条件反射であり、意識に傘のように覆いかぶさっている「かさぶた」のようなものだ。罪の意識ですらそうしたものの範疇にある。
「無明」とは、光に遠く暗い、明るくないということだ。人間は「五尺の体に宇宙を宿す」と言われている。
また、プラトン哲学でいうイデア論以来、私たちの内面は「小宇宙」とも言う。私たちの心もこうしたマンダラと同じイメージ(形)に実は造られている。私たちは、みな仏性の「種」を持っている。これを、仏教用語では「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)という。すなわち、「発心」、求める気持ちさえあれば、誰にでも、その世界(菩提心)を見いだすことができる。
「世尊よ、われあまねく知り得たり、わが自心を見るに、月輪の如し」 /金剛頂経
マーハヴァイローチャナ(大日如来)が1つのように、マンダラも一つである。そして、もともとマンダラが魂の本体ならば、もはやわたしたちの心は、はじめから揺れ動かない。
<第四章完>
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