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第三章......光の諸相


 「教行信証」のなかの「阿弥陀如来名号徳」で、光の仏を強調しているのでまず紹介する。


 「阿弥陀仏は智恵の光りにておわしますなり。この光を無碍光仏と申すなり。無碍光と申すゆえは、十方一切有情の悪業煩悩の心にさまたげられず、隔てなきゆえに、無碍とは申すなり。・・・唯、他力の信心によりて、不可思議光仏の土にはいりたると見えたり。不可称・不可説・不可思議の徳を具足す。心も及ばず、言葉も絶えたり。かかるが故に不可思議光仏のみえたり。南無不可思議光仏」 



 「顕浄土真仏土文類五」には、大無量寿経を引いて、無量寿仏には12の別名があるが、すべて光の称号となっている。

 「仏は阿難に告げたもうた。『無量寿仏の偉大なる働きに満ちた光明は最も尊ぶべきものであって、他の諸仏の光明が及ぶことができないものである。(中略)それゆえに、無量寿仏は、無量の光を放ちたもう仏「無量光仏(1)」、際限なく光を放ちたもう仏「無辺光仏(2)」、なにものにも妨げられない一切を照らす光を放ちたもう仏「無碍光仏(3)」、清浄なる光を放ちたもう仏「清浄光仏(4)」、照らされたものが喜びに満ちる光を放ちたもう仏「歓喜光仏(5)」、悟りの知恵の光を放ちたもう仏「知恵光仏(6)」、たえまなく光を放ちたもう仏「不断光仏(7)」、不思議な働きを持つ光を放ちたもう仏「難思光仏(8)」、言葉では言い表わせない働きをもつ仏「無称光仏(9)」、日や月よりもすぐれた光を放ちたもう仏「超日月光仏(10)」とお呼びするのである。・・・』 

 無量壽光仏といい、大無量寿経には仏が光であることを親鸞は高らかに伝えている。無碍光の意味はなにものにも影響されないことを言う。そこで、自然(じねん)と燦然と輝く光の境地に、どうしたら入ることができるのか。親鸞は述べている。光はどんな煩悩にも超越している。それゆえ無碍光と呼ぶ。この光の国土へ入るためには、己れの一切の思考を捨て、至純なる想い(他力)しかない。煩悩にとらわれた心を捨てきれないわれわれ凡夫がどうして、光の世界に自力で入り込めようかと・・・。
こうした全人格的な信念を吐露している。

 ところで、親鸞は、「かかるがゆえに、不可思議光仏の見えたり。」と言っている。つまり、言葉や自力を超えたところに諸仏の不可思議光(円光)は観ることが可能になった。
また、諸仏の明光は燦然とし、かつ色彩があるのだと伺い知ることができる。ブッダがアーナンダに語った、アミターパ(光明無量)の世界は、さまざまな色彩に溢れている。わたしたちの「存在」とは、さまざまな情報の塊といっても過言ではない。光がもつ情報の集積度はたいへんな容量で、そこには、人間一人のすべての記録をもつことことなど容易い。

 わたしたちも、「仏の住む世界」つまり、「空」のなかに光を実態として存在する。その光の情報を「知る力」を知恵という。
同じように「徳」とは、すなわち、「理(宇宙的本質)」を知る力を言う。「徳」を積むとは、本来、こうした「理」を悟る力を強めるという意味だ。
 功徳とは本来そうした意味で、真理を知る能力のことだ。神仏より与えられたものである光とそのなかに生かされていることは、全くの真理であり、自己を放擲するのは全くのところ「徳」を高める最上の方法となる。では、己れを虚しく、懺悔をすれば、悪業煩悩をたちきれなくとも、徳は盛んになるのであろうか? しかり、全くその通りである。この光は普くすべてを許し、隔てなく平等に照らしているからである。善悪を越えているという超越性が「無碍」ということなのだ。
善にこだわるのも、悪にこだわるのも執着であり、どちらにも偏ってはならないのだ。善悪を論ずること自体、自我の桎梏から離れていない。罪とは強い慣習によって作られるもので、善も悪も、離れてこそ、すべて許し(大慈悲)を受けることができよう。であるからこそ、ひたすらかの光を観ること(他力)に大いなる功徳がある。そこに親鸞の全人格的境地はある。
 目にみえない世界に理解力のない人を「徳」のない人という。仏教では下根(げこん)の衆生といって、始めから仏(ほとけ)に縁(えん)がない人々のことを言う。仏教は、そうした人々がこの世にいっぱい存在していることを、実は認めているのである。こういう人々は、愛や正義、平等、思いやり、慈愛、人間愛といった理性に属する言葉の意味がまるで分からない。理解できないので、こうした話から逃避するか、または反撃してくるかどちらかになる。だから、弘法(ぐほう)が命がけであったことは確かな事実だった。



○般若心経と空


 「般若心経」にある、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」の・・・「色」は、サンスクリット語で「ルーパ」といい、目に見える「形あるもの」という意味。シューニャータが空だ。もともと、シューニャータにはゼロの意味があった。しかし、空性は存在し、しかも5つの構成要素(地水火風空)からなる。全一なるマンダラが、そのまま空性であり、空性のなかにマンダラがあるわけではない。つまり、「一即一切・一切即一」なる存在である。すべてのなりたちは「空」をベースに一切が成り立っている。万象はすなわち空と一体だ。「空」は光の波動の世界であり、しかも、単一の珠網に覆われたマンダラである。般若心経はまさにそのことを述べている。般若心経のサンスクリット原典は日本の法隆寺に保存されていた「小本」があり、岩波文庫の『般若心経』に、その現代語訳がある。

 「全知者である悟った人にたてまつる。求道者にして聖なる観音は、深遠な知恵の完成を実践していたときに、存在するものには5つの構成要素があると見きわめた。しかも、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。」 

「聖なる観音は深く行をなされていたとき、すべての存在は5つの空域の光(マンダラ)からなると見極められた。しかも、マンダラは本性からいうと(苦のない永遠の存在)空であると見抜かれた。」 

原文の直訳では、「知恵の完成において、行を行じつつあったそのときに」と、となる。行とは、インドのウパニシャッド以来の伝統からすると、行とは暝想。


 「存在するものは5つの構成要素があると見きわめた」

 驚くことに原語、パンチャ・スカンダは、「5つの集まり」という意味。パンチャ・スカンダは単純にマンダラではないだろうか。5つの集まりは、はたして実体がないか? リアリティであるから、五つに分けることができる。仮に、「空」をゼロと仮定すると、0÷5=0となって一切が成り立たないことになる。「実体のないもの」は5つに分割できない。パンチャは5つのという意味。スカンダは薀。五薀とは、色、受、想、行、識をいう。色、受、想、行、識を意味し、心の機能を意味している。

もう一つ、わかりにくい訳を言うと、「それゆえに、シャーリープトラーよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、・・・」(空中無色)である。 

「物質的現象」(色)は空を離れてはいない。シューニャータ(空)とルーパ(色)とは不即不離な関係で、相互に浸透している。
あたかも、エネルギー(光)を離れて、物質はないともいるだろう。色は空、空は色なのだ。

 そもそも、「実体がないもの」と訳されているものは、驚くことに実は「存在する5つの構成要素」なのである。つまり、シューニャーター・・・「空」、なんとこれは、パンチャ・スカンダ(マンダラ)と同じ意味といえる。マンダラは空そのもの・・・すべての存在、あなたもマンダラだと言っていることと同じことである。 
仮に、パンチャ・スカンダをストレートにマンダラと解して原典にそって、みることにしよう。
すると、こんな風にすなおに読み下すことができる。

 全知者である悟った人にたてまつる。求道者にして聖なる観音は深く暝想をなされていたとき、すべての存在は5つの空域(マンダラ)からなると見極められた。しかも、マンダラは本性からいうと(苦のない永遠の存在)空であると見抜かれた。

マンダラは一切の物質を構成し、物質はマンダラを離れて存在しない。一切がマンダラであり、マンダラは一切である。 

認識し、行なうことの一切もまた、マンダラと離れたものではない。 シャーリーシー(智恵第一といわれた仏弟子)よ、マンダラは空性であり、生まれず、滅せず、垢つかず、浄らかならず、増えず、減らず、すべては不変なのだ。 

空は物質の世界にはなく、あらゆる感触(眼・耳・鼻・舌・身・意)、肉体的な感覚器官に囚われることはない。それゆえに、老いもなく死もなく、生老病死もない。なにか得ようとすることもなく、そのためにあれこれ悩むこともない。

内在された偉大な知恵(マンダラ)によって、ボーディサットバ(菩薩)になるのである。心にひっかかりがなく、苦しみも恐怖もない。一切の顛倒した世界を遠く離れ、ニルバーナに行き着くのだ。

三世の諸仏はこのように真実の知恵(マンダラ)によって、アヌクータラ・サンンミャクサンボーディ(最高の永久不変の悟り)を得たのだ。これこそが、真理であり、これ以上の真理もない。また、これに比較する真実はない。

よく苦しみを除き、真実であって、偽りがない。それゆえ、真実の内在された智恵を説いて、曰く、人々よ、彼岸に到達する悟りを成就せよ・・・」 


真実の知恵はマンダラに異ならない。しかし、5つの構造は物質的束縛を離れている目には見えない、空性のものだ。
パンチャ・スカンダは一切の苦悩をとき、老いも死もない。光明に満ちて、尽きることがない・・・それが、そなたたちの真実の智恵だ・・・・。

 存在のすべてはマンダラであり、マンダラを離れた存在はない。知恵の完成に至る行、つまり暝想によって彼岸に到達しろ・・・・というのがこの般若心経の大意。一切の精神的、肉体的活動は「空」の断面であり、それはマンダラの一部であり、マンダラの例外ではない。

般若心経は簡潔であるばかりでなく、その内容も偉大だ。

さて、「空」の世界について、弘法大師は第九住心で、いわゆる帝釈の珠網のたとえを説いて、その特徴をこのように説いている。

「すでに、一珠の中に於いて一切珠をいれるども、ついにこの一珠を出ず。一切珠に於いて一珠をいれども、ついにこの一珠をでざるなり。・・・故に知んぬ、十方の一切珠は即ち是れ一珠なることを・・・」 

 帝釈の珠網とは、マンダラでは諸仏を囲む円に現れる。天地を網羅する一珠のなかにすべての珠(諸仏の明光)が納まっている。大日如来(ヴィルシャナ如来)にすべてが包含され、そのなかですべての光輪が息づいている。光は「珠網」に包まれ、それゆえに円い。

 その「珠網」は透明な水面のように見え、その中に光が燦然と脈打つ。それで、諸仏は光輪(クリアーライト)となって顕れる。マンダラは大日如来の根源的な光(一珠)を諸仏の智恵(働き)に転換して具現しているのである。それゆえ、諸仏は色光を有し働きを有している。だが、永遠にして、「初め」であった大日如来はすべてに、対価なく永遠に、平等に与える続けるだけである。 これを、「慈悲」というのであって、それ以外の「慈悲」には絶対性はない。 

「オーム・蓮華にまします宝珠・フーム」の、蓮華につつまれる宝珠はこうして円なる光をさすのであり、マンダラの円に他ならない。


○外なるマンダラは球体を描いたもの


 外なるマンダラは、もともと球体の世界を輪切りにして、平面に余すところなく描こうとしたものである。マンダラは平面図であるが、もともと神仏の世界が平面世界(2次元)ではない。

このことは「仏教の世界観」(昭和54年・吉村廣文堂刊・東京芸術大学教授・西村公朝氏著、参照)が適切に指摘している。 

「仏界は球体です。たとえば、ゴムマリのなかに砂が充満しているような状態です。また、その砂には、大小があり、三角や四角などいろいろの形があるように、多種多様の仏がいるのです。この、球体の内部構造を図示することは、不可能に近いでしょう。」 しかし、「世界地図は、たとえば、ゴムマリの表皮を破って、平面に広げたように図化されていますが、球体の内部の図化は、本当に難しいと思います。ところがマンダラには、この立体的な仏界の状態が、立派に図示されているのです。私は、このマンダラをいちばん始めに、作図した絵仏師の創作力に敬服します。」

ここに、氏の独創的なスキルが展開されている。
 「絵仏師は、まず簡単な方法として、球体の仏界を二等分にする切断を考えました。つまり、ゴムマリを切断して、内部の砂を二分すればよいと思いました。彼はまず、ゴムマリを周囲から切り開いて展開し、その平面上へ砂を一粒づつ広げました。このとき、中心に近いものは中央へ、外皮に近いものは外側へ置きます。」

 だいたい、具体的には、このようにして立体である球のなかを、その、諸仏の位置を狂いなく描いたというのだ。さて、この球体のある部分はわれわれ自身であり、ちいさな砂粒の一つであるに違いない。なおかつすべてのすべてである一珠のいずれかであるのだろうか。 

「これらについて、説明した書もなければ、答えてくれる人もいません。むしろ多くの説明書は、その図が球体の内部構図であることさえ忘れ、平面としてみている場合もあり、またその図の祭り方にも、まちがったままで、平気で拝んでいる寺院も意外に多いのです。」 

 まず、もともと仏の世界が球体であることを根底に置き、そこから出発しないと、とんでもない方向へいってしまう。球体であり、且つ次元高い立体である、ということを知っておくべきだろう。図画としてのマンダラが立体の構造を現したものだということが不可欠である。また、さらにマンダラが私たちの心を写し取っているということを理解することも必要だ。

「マンダラが立体であることを説明した書もなければ、答えてくれる人もない。」

 マンダラが心の内奥の神秘を説き明かしてくれるとは古くから言われていた。しかし、言われてはいるがマンダラが立体であり、かつ球体であるという、たった一つの真実でさえ理解されていただろうか。マンダラを芸術の対象として終わらせてはならないし、また、反対にマンダラをマジカルな神秘のパワーを発する秘密的図画にしてもならない。マンダラは、内奥の英知が生きているわたしたち自身のイメージそのものだからだ。

<第三章完>

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