HOME-TOPへ

第六章......マンダラの循環 と動き



○ マンダラの循環 と動き 

 伝真言院マンダラの金剛界では成身会(じょうしんね)と同じ大きさの形が全部で八つ、成身会を取り囲んでいる。 それぞれ次のような名前があり、成身会のしたに
[1]三昧や会(さまやえ)、
その左に[2]微細会(みさいえ)、
その上に[3]供養会(くようえ)、
そのうえに、[4]四印会(しいんえ)、
その右に[5]一印会(いちいんえ)、
その右に[6]理趣会(りしゅえ)、
下って、[7]降三世会(こうざんぜえ)、
降りると[8]三世界三昧や会。

成身会を含めて全部で9つあるので九会マンダラ、または九曜マンダラと称されている。マンダラには、「動き」があって、いま並べた「会」の順序は、マンダラの流出の動きを示している。真ん中から、外に向かう「動き」と、外から中に向かう「動き」があって、それぞれ、「向下門」・「向上門」と教えが伝えられている。右回りは、天から地に、左回りは地から天にむかう。
中央から外に向かう「向下門」は右回りになっており、「向上門」は外から中心へ向かい渦巻くように動く。 中心に向かう「向上門」は大日如来との一体へと進む修業のステップを現しているとも言われている。
「従因向果」といい、凡夫から仏へ向かう動きである。先ほどの、各「会」の並び方は中心から外に向かう「向下門」の順番になっている。 この意味は人生の流れをも示しているとも言われる。

幼年期、成年期、壮年期、老年期と循環するのは右回り。
4季の配当は左回り、また時間も、左回りである。

 こうした解釈は占星術にも見いだせる。胎蔵界は黄泉から出生のプロセスを、逆に、金剛界は生まれてから死までであるという。幼年期、成年期、壮年期、老年期となり、そして根本会に到達する。こうした意味では修業の段階を示しているようでもある。こうした理解の仕方は占星術の四季の配当にも同様に見いだせる。占星術では時間の特定に伴って、場の性質を読む。そこで、右回りは諸如来のエネルギー場の流れ(次々とバトンタッチしていくように巡る)を現すことになる。

そこで、左回りは時間の流れ、右回りはエネルギーの流れになる。確かにいえることは、マンダラが時空の一切をそこに示していることである。こうしたことがいえるだろう。時間とエネルギーが逆に流れ、現象は場としてみると、その衝突した一点に現じている。

 仮に時間とエネルギーが(四次元の表面の流動線として)逆さまだという公式を考えてみよう。時間がたつに連れて、エネルギーはその反対、未来からやってくることになる。それゆえに、立体の絵巻物(宇宙のすべて)が現在という一瞬(刹那)に現じ、一切は、過去にも未来にも現じていない。こうして、過去・現在・未来を理解すると、現在しかない。そして、エネルギーは基本的に4つのおおきな領域をもった性質をもち、エネルギーは波長の短い方から、長いほうへと流れている。
この流れは循環であるので、つねに終わりがない。最後は始まりであり、始まりは同時に終わりだということだ。紙より薄い刹那が永遠に渦巻いている。一念三千の奥義がここに潜んでいる。


こうして、時間と波動がおりなして、一瞬の渡河の連続の中で、あらゆる変化が生まれている。宇宙空間はコズミックダンスだというのはそういうわけである。そして、変化の傾向が状態ということになる。

神の化身は、こうして一瞬にある物質を消し、また、自在に取り出す。見える世界がすべてではない。

神経と脳細胞の働きは、人間の内側から生み出されている。未来への自発的で、創造的な思い(ちから)が休まず自分自身を作り変えている。コズミックダンスがそうであるように、それは休みがない。

人生は刻々と終始することなく自分が描いており、同時に、神経細胞と脳も同じく活発な働きをしている。

脳はもともと夢見る器官だ。夢は自律的で自由な脳の活動であり、”未来”に向かっている。
夢と喪失すると、さまざまな肉体的な障害を生み出し楽園から失墜する。

ところで、祈りはすべて”未来”に向かっての自発性、創造性が本来備わっている。そして、それらがどうしても必要なものなのだ。それゆえに、祈りは生きる力となる。

また、芸術と祈りとは自発性と能動性において、全くおなじものといえる。人生は芸術であるというのは自由と創造性において、まさしく真である。


○男性原理と女性原理とは?


 まずマンダラは日本でも中国でも、金剛界マンダラと胎蔵界マンダラと2つのマンダラが常に一対のものとして見られていることはすでに述べた。つまり、それぞれ別なものを描いたのではなく、同じ球体を別な角度から見たものだといえる。では、どのように角度をかえて見たのだろうか。同じ立体の球を平面に描くという制約上、まず2つに割ってみて覗いてみる。その片方を見た形を金剛界、もうひとつを胎蔵界に表したのだとしよう。胎蔵界マンダラには金剛界マンダラには見られない重要なものが描かれているし、金剛界マンダラにも同様なことがいえる。

 金剛界マンダラは男性原理で描かれ、胎蔵界マンダラは女性原理で描かれているともいうが、主尊そのものが男性原理と女性原理が一体になったもの(三即一)といえる。
金剛界マンダラの成身会には結界があり、胎蔵界マンダラにはないことなどがやさしいイメージを与え、そうした包み込む母性を有するとみられるらしい。
般若とは完全な知恵という意味があるが、ヒンズータントラでは、般若(プラジニヤ・ー)といい、女性原理(シャクティ)を示し、行動と知恵であり、男性原理は方便(ウ・パーヤ)シヴァをといい、自らは何の活動もしない。

現実の活動のパワーはシャクティ(女性原理)であり、能動的である。方便(シヴァ)と般若(シャクティ)が一体になったときをアーナンダ(恍惚たる喜び)という。

仏教タントラでは活動するのが方便で、般若は真理であり、ヒンズータントラとは逆になる。般若と方便が一体になって活動することを大楽(Maha-sukha)という。般若はこうして仏教では真理(精神原理)の意味になるが、「般若の」という意味はもともとはシャクティであるから、「女性原理のマンダラ」とほぼ同義になる。胎蔵界マンダラは正確には「大悲胎蔵生マンダラ」といわれ、「胎」は母体を意味する。

 胎蔵界中台八葉院の弥勒、文殊普賢、観音菩薩の4菩薩は女性の菩薩である。こうした女性の菩薩は明妃(シャクティ)の意味。日本の胎蔵界マンダラは中台八葉院に四仏とともに四菩薩が描かれているが、驚いたことに、初期のチベットの胎蔵界マンダラは大日如来一尊のみが描かれている。チベットの胎蔵界は、はるかに「大日経」に忠実であるといわれるのはこうしたところからくる。
 四方四仏の基本的構造は「金光明経」と「華厳経」のビルシャナ仏とが組み合わされ、初めて胎蔵五仏が成立したという。こうして、さらに中台八葉院に明妃が組み込まれ、八葉構造が成立したという説がある。さて、チベットのマンダラは明妃(シャクティ)が描かれているが、四仏が明妃を得て多くの生命を出生するという考え方はインドの古来からの太地母神の信仰から来た。


後期のチベット密教の無上ヨーガタントラは性的技法が説かれている。
タントラの根本は男性より女性のほうが多量の霊的エネルギーをもっていると信じられ、このため男性は女性との性的結合によってはじめて悟りの境地に到達し、神的なるものを認識するという後期のタントリズムを生んだ。基本的には男性は射精によって精力を費やすことなく、女性のオルガスムスによって生じた液体を吸収し、長時間性交を保ち、大楽の観相をする生理的ヨ-ガである。

女神との合一している神仏の当体のごとくなろうとする儀式の体系を秘密灌頂という。関連して、これらは後期密教に特有の神妃(しんひ)を抱いた父母仏のタンカのに転じている。究境次第は秘中の秘ともいうべきで、チベットでは黄帽をかぶるゲルク派は戒律を重視するとともに、理論的に統合し、性的ヨーガの放逸性に厳しく制限を課した。ゲルク派はダライ・ラマ活仏を誕生させた最大の宗派である。(チベットでは、ニンマ派、サキャ派、カギュ派、ゲルク派と四大宗派がある。)

 後期の無上瑜伽タントラはヒンズー教、梵教の神母信仰と習合したもので、本来、禁欲的な仏教とは相容れないので、「タントラ密教」として本来の仏教と区別する。
タントラ以前の教典はスートラという。大日教と金剛頂教はこの中間に位置する。
 ヤブ・ユム像をタンカに描くのは秘密タントラからくる。太地母神なる存在と、その占める最高の霊的源泉を根本にしているアーリア系の思想がある以上、それはそれである。
 インドのカジュラーホーのヒンズー寺院群、コナーラクの太陽寺院の外壁を飾る男女の交歓像(ミトナ像)は、けた外れに官能的な浮き彫りで、おびただしく曝している。リンガをヨーニに結合し、女性は永遠のオルガスムスに至福の笑みを浮かべている。シヴァ神とカーりー女神の合一を表すリンガ(男根)・ヨーニ(女陰)がそもそも神体であるので、ヒンズータントラは性的結合が万物の根本であるという原理にたったものである。

さて、陽子+と電子-が中間子の交換で結び付けられていることを証明したのはノーベル賞を受賞した湯川博士だが、男性原理と女性原理はこの陽子と電子に置き換えられる。それら結び付けているているのが中間子で、あたかも霊力としての神の力のような働きをしているといえる。それが中間子と呼ばれるのは偶然の言葉にしてはたいへん面白い。さらに、後述されるテーマだろうか。


○アルチ三層寺のマンダラ  

 「ラダック」という言葉は、チベット語で「多くの峠にかこまれた地域」という意味である。この、ラダック地方にマンダラがあることだけは知られていた。20世紀の初めにフランケという探検家がこの地方を調査して旅行記を書いたなかで、「マンダラがある」ということだけ記されていた。では一体どんなマンダラがあるのかということは全く知られていなかった。いま、こうして私たちが、チベットのマンダラを写真集などで見ることができるようになったのは、高野山大学が1977年に調査隊を派遣して以来のことで、つい最近のことである。

 「そこへ、調査団を派遣したのだが、実は、期待以上に驚くことになった。今まで、ネパールとかチベットの周辺地域を調査していたが、ラダックへ行ってびっくりしたのは、みごとなマンダラや、彫刻、工芸品が、ずらりと生き残っていることである。その、主だったものは、1980年、東京・西武美術館で開かれた「マンダラー出現と消滅」展で、写真記録によって公開し、調査の成果を報告したヒマラヤ辺境にこれほど質の高い、そして内容の充実した文化遺産が、ほとんど無傷で残っていたことに、まず私たちは驚嘆したのである。」 

(高野山大学学長 松長有慶氏の「インド密教とマンダラの展開」(マンダラの世界・講談社刊) 

ラダック地方のゴンパ(寺)にあったマンダラ群が、非常に価値の高いことが明らかになり、そのなかでも、アルチ三層寺は、ラダック地方の数ある寺院のなかで、もっとも、優れた建築とマンダラ図を残していた。チベット語で、寺のことを「ゴンパ」という。このアルチ三層寺は三層様になり、一層が、約6m平方の建物で、初層と二層にかけては、左に観音、中央に弥勒、右に文殊菩薩と、4m以上の立体物がある。そのまわりの壁にびっしりと「マンダラ」が描かれている。ラダックのマンダラは大部分が金剛界に属するマンダラで、日本とこのチベットにしか残されていないと意味でたいへんエキサイティングな出来事だったのである。

 ラダックにあるアルチゴンパのマンダラは色彩や形状においてより直截である。ラダックのマンダラは、長い間外国人には見ることのできないものだった。このラダックのアルチ寺のマンダラを正確には「金剛界三十七尊マンダラ」といい、このマンダラには、四仏の身体がきちんと色分けされている。この、身色は、空界における光(クリアーライト)の色を示している。それは、肌の色をもって開示しているのである。 さて、ラダックのマンダラは、より金剛頂経に忠実であると言われているのはこの身色のゆえであるといわれている。

 5大-地、水、火、風、空、はそれぞれ空の原初仏を除く4元素は、原初仏の徳(機能を)意味する。五大は中国の五行と気脈を通づる思想である。水は水、火は火、金は地、木は風とそれぞれ対応し、空は土に対応する。もともと、地、水、火、風はギリシャにもあり、地水火風空はインドでヨーロッパ系アーリア民族に伝播したものだろう。しかし、共通に占星術のフィルターを通してみると面白い。        

風(ふう) ヴァユ 水瓶座
火(か) テジャス 獅子座
空(くう) キャ エーテル 透明 地球
地(ち) プリティヴィ 牡牛座
水(すい) アパス 蠍座

五色を透過してみると、こう対応していると閃く。まず、東西の観念がシルクロードにまたがって繋がっていただろう。思いが馳せることは、循環の法則は5行では木、火、土、金、水。インドの地、水、火、風、空がそれに対応する。

すると、この流れ(循環)が驚くべきことにチベットのマンダラの成身会の5仏の色を追ってみると左回りになる。色を透かしてみること面白いことが分かる。これは星座表の12獣帯の左回りと同じになる。金剛界成身会は左回りに循環するように見える。それは季節を配当してみるのである。 

マンダラ インド 五行 四季 色彩
占星術 ギリシャ 聖書暗号
(宝生) 牡牛座 プリティヴィ 牛の顏
(阿弥陀) 獅子座 テジャス 獅子の顏
(阿しゅく仏) 蠍座座 アパス 鷲の顏
(不空成就) 水瓶座 ヴァユ 人の顔



 ここで、占星術もじつはマンダラに呼応している。己奥の魂、マンダラが運命の根元にある。色彩の属性はそのまま、占いの属性になりうる。また、春夏秋冬も、成長発展の過程に置き換えて表現すればそのまま占いになる。
占いの源流はマンダラにあったのではないだろうか。



○チベットの金剛界マンダラ  


 弘法大師・空海が修業したといわれる大和の久米寺にある星マンダラ(現在奈良博物館)は九曜星と獣帯を対応させているので、黄道12宮とマンダラの関係を解きあかしてくれる。マンダラは占星学と無縁でない。密教には独特の占星術がある。すでに平安時代に真言宗に伝わったとされる。言えることは、占星術で言う4つの獣(固定星座)はそのまま、4つの仏にあてはまる...のである。

 占星術の黄道12宮は左回りである。五智如来の構図は占星術の影響を透過させてみると、はるかバビロニアに源流を遡ることができる。四大は地水火風の四元素をいうが、これに、空が加わったものが、五元素説である。偉大なるデモクリトスもアトムに、「空間」を考えたが、それが活動する場としてであって、元素の一つとしてではなかった。
中国では易学として昇華した。



○主尊は不動

 金剛界マンダラの成身会が大日如来という世を普く照らす命の源のような中心仏の座すところになっている。あらゆる働き(人間も含めて)は、仏のコスモスのなかに包含され一体として存在している。 
宝珠のなかにあり、その中心はブラフマン(ヒンズーの創造神)ともいえる。「タオ」と呼ぼうと、ヴァイローチャナと呼ぼうととブラフマンとよぼうと唯一神であることに変わりはない。

主尊はそれが永遠の存在そのものであり、それが現象的に4に分化するというプロセスを経てこのような五智如来の構造になったのだと考えられる。この形は「空」の構造図であって、真実を明かし神秘(秘されたもの)を率直に与えてくれたものである。

般若心経には「存在するものには5つの構成要素があり、それは空性である」としている。(サンスクリット原典訳)」。そこに盛られた色や諸仏の名称は主尊が産出する作用を示しているので、主尊の化身である。こうしたマンダラの根底的思想は世界的に普遍化しうる純粋な真理を含んでいる。
諸仏に色彩は象徴的に使われているわけではない。

 色彩スペクトルは、次のように教える。つまり、赤の反対色は緑である。青の反対色は黄色である。それぞれ、光の混色(加算混合)において白色透明になる。つまり、中央の白色透明のバイローチャナはすべてのスペクトルをもち、それは、すべての色彩を包含した光である。それは、完全調和を象徴している。赤と緑の中間点は白であり、青と黄色の中間点も白であろう。では、この見事な関係は図形にすると+のようになる。中心はマトリックス機能をもち、辺片は色調信号のバランスをとっている。それゆえに主尊はすべてを含んでいながら色彩を持たず、その属性をも持たない。


○光は情報?

 意識は拡大し、ときに宇宙大にまで瞬時に拡張すると言われる。急速な意識の拡大は、この内宇宙たるロゴスの空間的拡張に他ならない。

 「脈動し振動する球体」は美しい数学的原理をもち、あたかも音楽のオクターブのように調和された幾何学をもつ。空間的な拡大はまた、同時に時間軸をも長くする。時計の一秒はときに主観的には数10倍に達する。夢の世界ではたった数秒間にに数時間のストーリーを体験するようなことがあるといわれる。この時、時間が長くなり、止まったように感じる。このなかでは、ニュートンのいう客観的時間は明らかに変動している。空間が光速で拡張するとき、時計の時間は変わりはないが、意識はその時計と同じ時間よりずっと長い時間を過すのだ。ここでは、時間は意識に従属し、状態の変化が絶対的な時間を凌駕する。 

 ロゴスの拡張と収縮はあたかも、瞬間で光のように素早く動く波のようだ。人間の目は一秒間に60回ものサイクルで点滅を繰り返されると、もうその点滅を見ることができない。交流の電気は、+と-を交互に一秒間に50回繰り返しているのだが、しかし、電球は消えたりついたりしているようには見えない。また、その例で言うと、テレビはあたかもその人間の残存映像の埋め合わせることにより連続した映像のように見せかけているだけに過ぎない。一秒間に、50回の再描画を行わないと滑らかな動きにならない。

 動きこそが唯一リアリティを証明する。振動数がちょっとでも素早くなると、人間の肉眼はついてゆくことが出来なくなってしまう。しかし振動そのものは実在している。光の速さは一秒間に地球を7回りする距離を進む。(約30万㎞)。

この速さはすでに直観的な推測を許さない。原子そのものも波動のように収縮と拡張を瞬時に繰り返しているのだ。それも、非常に高速で、捕らえることのできない早さで。振動は、それゆえにあらゆる物体の宿命である。人間もその例外ではない。その振動の波長に、人間はあたかも音叉のように、影響を受ける受容体なのだ。意識の中心は拡張と収縮をしていること、そして、そのサイクルは10の15乗、1千兆サイクルに及ぶ。 

また、その驚異的な数値に値する驚くべき人体の事実もある。それは、人間の染色体に秘められている。それは、わずか1ミリしかないDNAに、たった4つの塩基によって、約一京(10の16乗)ビットの情報が貯えられていることである。その情報は、ひとつひとつの細胞が再生のためにもつ情報量ばかりではなく、タイマーのような時系列もコントロールする情報が含まれている。その細胞が人体には60兆も集まっての構成されているのだ。

 人間のもつ情報のレベルが10の16乗であり、光に転換するとエネルギーとしての振動は、同様に一秒間に10の16乗に転換される。つまり、光の振動の写し絵のような存在、それが「DNA」といっても過言ではない。
 
 霊的な光はあらゆる光体のなかでも最も精妙な波長の短い光りである。ところで、人間の脳の波動は7ヘルツの振動というアルファ波から、13~28ヘルツのベータ波位の振動を(一秒間)に起こしている。

 わたしたちの肉体の脳波はかなりゆっくりしている。しかし、意識の宇宙は1京にも及ぶ振動の光まで(電磁波)連続して存在すると考えられる。振動は、存在の源泉であり、万物の生存のリアリティと同義であるとしか言いようがない。一刹那を現実だとすると、宇宙は一京分の一秒の高速で描画されている。一瞬に全ヨジャーナが存在し、先にも後にも物体としては現れていない。それは、空域のはざまであって、かつ、空域に連続している。全ヨジャーナは、高速に踊りつづけているのだ

 こうして、フィールドの拡張といっても意識の面では一瞬におこなわれ、繰り返されていると思われる。生命のダンスは躍動であり、それは、物理学的にいうと原子核のなかの振動のようである。音は空中を伝わる静と動の繰り返しで伝わる。要は波である。音も波形を描くが、振動とは波である。

 創世記の書きだしは、神は[光りあれ]といわれた。すると光があった。神はその光を闇とをわけられた」と、ある。「光と闇」でもって、凝縮と希薄な波の形態と暗示するとは言えないだろうか。つまり、+と-の振動を現したものだ。要するに、振動というものが、かならず活動と停止の繰り返し、または、イエスとノウの繰り返しであり、それが、すべての情報の本質であるといえよう。 

 光は波であるか粒子であるかということは長く物理学の論点だったが、「光は粒子的な性格の波動である」、という結論になった。自然界の光は振動の伝達ということでとらえらる。現実の可視光線は、太陽から送られる光のわずか13%にすぎず、紫外線、可視光線、赤外線と順次波長を長く、低くしている。そのうち、赤外線は約80%も含まれているが、目には見えない。

電子レンジに使われているマイクロ波や通信などに使われる電波は赤外線より長い波長の電磁波で、真空でも伝わる。自然のすべての物質は分子によって構成され、分子は原子によって構成されている。

この原子は正の電荷をもった原子核の周りを負の電荷を持った幾つかの電子が、円形や楕円形を描きながら非常に早い速度で回転している。こうした構造の原子が結びついた原子の集団が分子で、水の場合は分子式(H2O)で、2つの水素原子と1つの酸素原子が電子を共有していてできている。さらに分子を構成するこの原子は互いに原子間で振動していて1つの分子のなかでもそれぞれの原子間の特有の振動と回転の周波数を持っている。すなわち、分子を構成する原子間の結合部分は絶えず伸びたり縮んだり(伸縮運動)、あるいは、角度が変わったり(変角運動)し続けている。

このような構造をもつ分子に、ある振動数を持った波長があたった場合、分子のなかで、それと同じ振動数で振動している原子結合があったとすれば、その結合間はその電磁波のエネルギーを吸収して、より激しく振動する。それを、共振共鳴作用という。この時、同じ振動数を持っていないと、外からの電磁波は分子をそのまま通りすぎてしまうという現象がある。

つまり、ここに、人間におけるチューニング機能、つまりはユングのいう共時性のようなことが解明される糸口がある。 

 さて、こうした原理で、マイクロ波は水の分子を加熱する。家庭にある電子レンジは、食品に含まれる水を加熱し料理する。つまり、振動数が同じであるときにそのエネルギーを吸収することができる。

肉体細胞はだいたい4ー14ミクロンの近遠赤外線を放射していることが解っている。 この遠赤外線も1種の光であり(電磁波)、太陽から、たとえ目に見えなくとも大気を通過して地上に送られてきている。それで、太陽から送られれてくる遠赤外線と共鳴して細胞は熱を感じている。

陽なたぼっこが心地よく、そして暖かいというのは太陽の一部の波長と細胞が共振しているからだ。それを、放射熱を浴びるともいっている。光はこうして原初より、振動をリアリティとして持っている。

いっぽう人間はその肉体の感覚を神経を通し一種の電気的信号によって伝達している。人間の感覚神経細胞(ニューロン)は末端の刺激を長い神経繊維を通し脊髄を束となって通り脳に伝達する一大機構をなしている。この、感覚細胞は140億あるといわれ、あらゆる刺激を電気パルスに転換して脳に送っている。それを、棘波(きょくは)といい、あらゆる感覚をあたかもモールス信号のように「yes」と「no」の信号に翻訳して、その信号を脳に伝達している。波動は「yes」と「no」の繰り返しであるように情報も、もた、「yes」と「no」の集積であるといえる。この繰り返しを、1バイトという。

 すべての物質の単位である原子核も電子も固有の振動をしている。振動はすなわち、波動であり波動である以上、陰と陽、+と-の支配を免れない。しかし、精神は内部にいくほど次元が高くなり、精妙になるといわれいる。自然界の電磁波は、共鳴作用を同じ波長をもつ原子におこすように、人間の心もまた共振作用をもっている。

すべての振動に対して敏感に反応している。それは、高い振動から、低い振動まで、幅広く、無数のエネルギー振動に同調している。人間には無数のセンサーがあるのだが、それらは脳の神経細胞を伝わらないだけである。

こうして、休止と活動の2の原理はすべての普遍的なリアリティであり、それが、中国の「陰と陽」の思想にあったということがいえる。「神はひかりと闇とに分けられた」・・・・こうした言葉にもわたしは惹かれてならない。神自らが、陰と陽を分けられたが、しかし無限の霊力をもって、この2つを統べている。


<第六章完>

 HOME-TOPへ