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第十一章.......蓮華座(蓮の花の台座)について




 蓮華、スイレン科ハス属の水生多年草、この蓮華は、心の造形であり、万物創造にとって重要な存在であり、蓮華なくしていっさいの精神活動はない。蓮華はきわめて神秘的な花である。

大賀蓮

「原初に存在したのはただ水だけであった。そして、その水のなかからハスの花が浮かび上がってきた。神の、生命のもとがまさに世界を生み出そうとしたとき、その宇宙の水は、大陽のように金色に光輝く千の花弁をもつハスを伸ばした。これは宇宙の扉・・・」  
ヒンドゥー教の神話 「タイッテリーヤ・ブラーフマナ」

 この神話は数千年前に書かれた。ここでは蓮華という役者は創造に欠くことのできない存在として描かれる。一般に仏事には欠かせない花であるばかりか、マンダラでは仏菩薩が座す台座となっている。蓮華座と称されている。諸仏はなんの上にお座りになっている? よく観察すると蓮の花弁の上に座っている。なぜ、仏菩薩が蓮の花の上に座って居るのだろうか? 単に台座の装飾だったのだろうか?

 面白いことに、蓮華は仏菩薩の「乗物」だとする学説がある。ヒンドゥー教では、神が象や牛、亀の上に乗っている聖画や像が多い。それと同じように、ハスの花が乗物として伝統的に採用されていたのだというのだ。しかし、蓮は、空飛ぶ絨毯のように飛び回るだろうか。乗り物にするには苦しい。さて、仏菩薩がハスの花の上に座っているのは、実はあるイメージがハスに転じたのである。仏像になくてはならない存在。マンダラのなかに描かれるべきして、描かれる存在。それが蓮であり、それは真実の相(心)に似ているからだ。そうした「似ている」、相似という意味では、これから紹介する下の図柄はたいへん興味深いものが描かれている。キリストの右手に持たれている丸いプレートは、なんと西欧で描かれた蓮華なのである。

Cirlce of Jesus
この図版は11世紀の始めに描かれたパントクラトール(全能の支配者)
キリストの右手に持っているプレートの図柄は、西欧神秘主義の神の形(エイコーン)。コプレンツのザンクト・カストールの聖書にある図版。

西洋のマンダラは次のような特徴をもっている。
  1. 炎のように黄金色に光り、
  2. その手は刀のような4つの手が真っすぐにのびており、その先端は牛の蹄のように分かれている。
  3. その根元は中央の球体からでており、互いに連なり、あたかも青竜等刀や花弁のように見える。 
  4. その先端の花弁は球体(ケルブ)を包み込んでいる。
  5. 球体は黄金に輝く彗星のようなたなびきをもつ。 

単弁蓮華紋様

単弁蓮華紋様 (山田寺の瓦 東洋で普遍的に見られる蓮の紋様はマンダラにそっくりである。)

 ところで蓮は密教の法具、三鈷杵に転じている。(弘法大師が右手で逆手に持っておられる法具のこと)。

dorje

>ダブル・ドルジェ 
十字金剛杵

平静、不安、全能の力を象徴する

 上の図版、金剛杵もまたマンダラに近い。その形状と色彩はマンダラの構成要素であるイメージを直裁に残している。刀のようにまっすぐに伸びた黄金の腕、そして、球体を包み込むような切っ先。まさしく、信じようと信じまいとこのようなイメージが蓮華なのだ。聖書では花弁を「Wings」茎の部分を 「Hands」という。

 その手は刀のような4つの手が真っすぐにのびており、その先端は牛の蹄のように分かれている。この特徴からみて、これは輪宝の車軸にあたる、あるいは仏像の光背の矢にあたり、その役割は中央の主尊と四菩薩(従尊)をつなぐ「手」のようなものだ。
 千手観音や、踊るシバ神、さまざまな仏像が手をたくさん持っているのはそうした理由のもとに作られている。
また、これらのものは創世記ではエデンの園から流れる4本の川と称され命の水と記される。

 エゼキエル書では真っすぐにのびた{Hands}(手)&{Wings}(翼)、さらに{Cherb}(ケルブ)(4如来)、たなびく彗星{Feet}(光背の矢)などがキーワードとなる。これらはみな{colour of burnished brass}、磨かれた青銅のように輝いている。

 「4つの生き物(従尊)には、それぞれ4つの翼があり、その翼のまわりにも内側にも目で満ちていた」
「4つの輪(ケルブ)には輪縁と輻とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた」、(エゼキエル(1-18、1-21)
 生きものの霊が輪縁{Wings}のなかにある。4つの生きもの、おのおのに一つづつの輪がある。輪とはケルブであり、輪縁とは蓮の花弁になるのである。

 蓮は直接マンダラ図版にもそれを見つけることができる。胎蔵界マンダラには、よく観察すると、主尊から四如来の間に、なにやら熊手のような不思議な物が描かれている。
金剛界マンダラでは結界の帯に描かれているのが、まさにそれだ。結界は城壁になぞられるている。仏菩薩をまもる働きがあるとされる。結界なくして仏菩薩もありえない。それほど結界は重要なものだ。実は、この結界は「蓮」なのである。チベットの金剛界マンダラの結界は、ほとんど墨色で描かれている。ある程度の太さをもっているが、とても細い。また、その細い幅の中間に、ある装飾物が描かれている。なんと驚くべきことに、三鈷杵(ドルジェ)である。三鈷杵がなぜ結界の帯の中に描かれるのだろうか。その理由は、結界が蓮華、そのものであることを明らかに示すためであろう。
もし、たんなる装飾であるならば、それはさまざまな文様でもっと多様に描かれたはずだ。ドルジェは通説では仏菩薩を守るインド古代の武器であるといわれている。が、それは武器ではなく「蓮華」なのである。

 さて、ハスの茎も同時に重要な意味をもっている。茎も無視することができない。ハスの茎は神の手になり、十字架となる。十字は4仏対応と全く同じなのだ。
花の花弁が四仏を包み込んでいる。茎は主尊(中央)とそれぞれ繋がっている。
白銅蓮池文磬
白銅蓮池文磬(はくどうはすいけもんけい)
仏具で読経時に使用する。平安時代の作。蓮の華芯がありありと描かれている。

 チベットマンダラでは、原初物と如来・菩薩が宗派によって入れ替わるものがある。中央に位置するばあい、どの仏であろうと法則に変わりはない。万物万象の、あらゆるオブジェクトは、三位一体である。このことは重要な意味をもってくる。なんと、万物の創造に深く刻印されている三位一体は蓮華によって成り立っていたのだ。蓮華には最奥の神秘が潜んでいた。蓮華は聖なる花として、教典に随所に書かれた。そればかりか、ハスの花は仏の周辺に描かれたり、また飾られるようになった。タイでは王宮の仏前に蓮の華がそなえられる。仏教国では神聖な華であり、蓮の花弁を内側に折り返して仏前に供える風習がある。蓮華は上から見ると、蓮の華芯はあたかもマンダラのようである。
 ありありとイメージしてみよう。金色に光る美しい蓮のことを。それは、人間の心像なのだ。ようするに、このような概観をもつ蓮華(ハス)は、神の玉座の東洋的象徴となった。初めから神の形として最も神聖な存在として、蓮華は存在したのである。人間はそうした「神の像」と始まりもなく終わりもなく相似形だった。そうである以上、人間の本性もなにかの形を持っている。すなわち、蓮は人間の心の生き写しである。蓮華を観想することによって現れてくるものは、自分自身の心だといえよう。


○ 色彩と瞑想

 虹は純粋スペクトルは6色にになる。7色というのはそう映じるだけである。
“虹”という大自然のページェントが教えていたことなのだが色彩は、“波長”として今日では科学的に語られるている。


 「光はそれ自身は色彩はない」

 これはニュートンが言ったことだが、光は[反射して]初めて色彩を発する。万物が光に照らされてはじめて色彩となって表れる、すると万物にも色彩はない。光自身にも色彩はなく、どこにも色彩はない。
色彩として表れることによって、ようやく個性ある様々な存在物となって認知されるのは、じつは目の機能であり、しいては心で色彩は発生する。
目は、明暗、赤緑、黄青の3つのレベルセンサーで脳に信号を送る。そして色彩が感知される。つまりこのセンサーは、2つの秤と明暗だけを感知する信号が組合わさった複合検索装置みたいなものだ。

 色彩にはエモーチブな要素があり、それぞれに固有の感情をもっているようである。
“色彩は個性である”ということは否定できない。
色彩は世界のすみずみを乱舞する一大ショウといえる。
色とは自然界にあって巨大なメルヘンである。
花や蝶、多くの樹木、季節の折々に咲く色とりどりの花、みごとな昆虫の擬態の色彩、動物の体色、すべてが、ファンタジィだ。人間はこれらの色彩に囲まれ繋がれている。人間は光というステージ(舞台)の一つのキャスターにすぎないのだ。
春の新緑、夏の緑、秋の紅葉、冬の落葉にいたる四季の移り変りの色合の変化に、人はさまざまな感動を覚える。こうして、いにしえより歌や句を詠んできた。偉大な歌人は、大自然に光の領域につながる“神聖”をそこに発見し、それをみずみずしい感性で詠んでいた。
色彩に感情を感じるのは人間のみであろうか?  


1)獅子座の人は情熱とエネルギッシュな行動力をもち、時に激烈な野性の叫びをあげ、鮮烈な情熱は暗さを嫌い、希望をあたえる指導者であり目立ちたがりの人気者である。実はこの性格は、「赤」という色彩に対して、人間が感じている感情そのものであることに気づく。 

赤の色彩感情
情熱、革命、激怒、興奮、勇敢、闘争、危険、愛情、性情、野蛮、勢力的。

 これらの言葉は「赤」に心理的に感じるものの羅列である。この中で、もっとも優勢なのが、情熱である。占星術では、獅子座が、“赤”に象徴される。

2)さそり座は青ないし青紫である。青の心理的感情は次のようである。  

青の色彩感情
霊魂、神秘、優美、悲哀、荘厳、幻想、高尚、深さ、黙想、涼しさ、公正 

青の色の色彩感情と
さそり座は、似かよった特性をそなえていないだろうか。

3)牡牛座は黄色である。黄色の心理的感情は次のようである。

黄色の色彩感情
光明、希望、嫉妬、発展、快活、向上

4)水瓶座は緑である。

緑の色彩感情
平和、青春、希望、健全、成長、理想、安全・・・

 いわゆる色彩感情が星座の特徴といかに符合するかということを憶えておいてほしい。
色彩は現象的転換の暗号である。暗号をひもとけば、個性が閃きだしてくるというわけだ。


 俗に言うあの世とこの世は、「あ」と「こ」の違いしかないが、あの世とこの世とは反対の法則が働いている。色材の反対色が、「光」の場合だともっとも調和するという不思議な法則がある。

「汝の敵を愛せ」、かりにこの言葉を色彩の法則になぞらえてみよう。

 混色すると真っ黒になる、すなわち補色の色同志のことを敵色としよう。(減算混合)
では、これを光に転換すると補色の光同志の混色は何色になるだろう。(加算混合)
実は「白い光」になる。
物質の色材では黒になるが、光では白色透明光になる。まさにあべこべになる。
敵色は光で合一すると至上の光になるのである。

 言葉よりも速く瞬間に意識が直感的に捉える。人々は、たがいに異なった色彩の光(波動)を放射している。そして、相手が放射した光を反射している。自分が放射している光は誰かの意識に反射して返ってくる。意識は放射板と同時に受光板でもある。
この法則はカルマを生み出し、また永遠の苦しみの輪廻である。
 結論からいうと中道すなわち無色透明になればあらゆる桎梏を逃れる。この無色には敵はなく、すべてを含みすべてを放つ。あなたは、すべてでありあらゆる他性を含む。他人はあなたであり、あなたは人類すべてである。もはや敵はない。神はあなたであり、神聖なる一なる光に融合する。
この苦悩を逃れる方法は自己の変革であり自己の変革は天地の変化でありすべてを変える。


 観るということ  “Idea”はギリシャ哲学で、アリストテレスが使ったが、もともとは“idein”という「見る」という動詞に由来している。 また、理論という言葉、“theory”は「見る」という“theoria”という語に由来する。すなわち、見るということが哲学の語源でもあるといえる。見るということは、肉体と魂(プシケー)を峻別するアリストテレスの立場からすると、“真理を見る”、つまり、肉体から分離したところで見るロゴスを指す。すなわち、死は肉体からの魂の解放である。 
純粋な魂の作用として見るハデス(霊界)は、死の予備訓練によって観照される。 

第三の目・・・はこうして哲学そのものだ。死は哲学であり、あらたな視覚。光は言葉に転ずるがゆえに、言葉の領域にある間は決して見えない。見るということは心を止めなければならない。“止観”とは、そういうことを指している。止観は、禅の瞑想とも密教の観法とも違うように思える。真なる光を観ることを目指す瞑想である。
古来の先人たちも、この光を胸中に万物に現われる真理を観察したのだ。この光によってすべての生がある。それを悟ったものは、永遠に生きることを知っている。
 この空なる領域の光、プラーナ(スフィア)によってすべては生きているにもかかわらず、人はそれを知らない。これが無明である。人間は傲慢になり同時にあらゆる恐怖を囲ってしまった。しかし、この光の内にあることを再び知る。すべてがひとつの振動に共振する部分であることに気づくと、そこには死がないことも知る。

しかし、人類の活動はすなわちプラーナの至純を汚し妨げていないだろうか。



○瞑想のはじめ(入門)

 あるがままのプラーナは思考の過程であらゆる誤謬に落ち込んでしまう。プラーナをプラーナのまま受け止めれば光は見えてくる。
心は動いて一時も休まない。では、心を止めるにはどうしたらよいだろう。言語を起こせばその瞬間にプラーナは消費されてしまう。
心を静めるためには、まず、調息することだ。大きな腹式呼吸は三回もすれば、まず、心が静まり、多くの雑念を取り去ってくれる。心臓の鼓動がおだやかに打っていることを感じること。
瞑想中はことばを発してはならない。
しかし、単に静かにしているのでは雑念と妄想と戦わなくてはならない。
言語を止めるには非言語を発することだ。(左脳の活動を止める)
ゆったりとした腹式呼吸を行なうこと。姿勢は問わないが横になるのは眠気を呼ぶので避けたほうがよい。

出息のとき、これを入息より長くする。言い換えると出息を長くとる。いわゆる“長息”とする。

 喉の奥から摩擦音をだしながら息をだす。この摩擦音に音声を付加してはならない。ただ、喉に任せてでてくるノイズを出るがまま出す。滝壷に水の落ちる音や、たくさんの軍馬の踏みならす音、あるいは羽音、もしくはモータやエンジンの音。それらは擦過音として発生される。
これは、子音が母音を征する理屈になる音である。サウンドとボイスの違いとも言える。
(要注意)なぜ重要かと言えばば、いわば、それがマントラにあたると心得るといえば分かってもらえるのだろうか。
目は開いていても、閉じていてもよいが、焦点を合わせてはいけない。
眼球の焦点を合わせようとすると目の筋力を緊張させてしまうからだ。

 天上の光を観ようとして、観よう観ようという念は(意識)かえって妨げとなる。月輪、すなわち丸い柔らかな(サッカーボールとぐらいの)光芒をイメージしながら、ゆったりと長息を続ける。各人のプラーナの光の色が、“まるい雲”のようにあるとイメージするのだ。そこに、光が凝縮してくる。この凝縮する場所は第二の脳にあたる臍のあたりである。すなわち入息するといちばん脹らむ当たりでよい。
思考が止まったらプラーナも思考に流れなくなるので、自然と目蓋の裏に空の光がありありと見えてくる。この光は、目蓋を開けていても閉じていても変化がないから、目を開けたり閉じたりしても影響がなかったらそれは空の光だ。光がなかなか見えない人は、天上の光をこのようにイメージするとよい。それは言葉によってはならない。

 こうして見えてきた光は神火とか、仏の光とか言われている精神の火である。すべては原初の光から流入してくる。静かな落ち着いた呼吸と思念をとめる摩擦音でこの精神の火(内的光)は現われる。真の悟りは魂の不滅性を覚知する。光輝なる自身は永遠の懐に既にある。瞼には自然と流れいる光が動いている。その動きはあなたの意識とは無関係に動く。

 光は自在に片時も動きを止めない。円なるオーロラのようにたなびき、現われては消え、消えては現われる。 光は色彩を伴っているが、やがてヴァイオレット・ブルー(透明な美しい青紫)の色に変化して、やがてその色に誰でもが変化をしない色彩に到達する。

黄金色の補色であるこのヴァイオレット(すみれ色)は、チベットのニンマ派、サキャ派、カギュ派であれ、至純の青は疑いえない空域の光である。

 こうして光の瞑想法は単純だが他の瞑想法とは微妙な違いがある。その微妙な違いが実は大きな違いとなっているだろうことを知る。
光を目的に行なう瞑想と、知らずに行なう瞑想とではまったく異なるのだ。
神仏の光を知らずに瞑想するのは目的地を知らないで探険する探検家のようなものだから、行き着くところがどんなところか分からない。灯台を知らずに、さまよう船のようだ。 

 騒がしい心のままこの瞑想には入れない。だから動き回る思考や心配事ををおろして軽くしておくことだ。心があれやこれや俗事に振り回されていては、なかなか本性の光は見えてこない。精神のエネルギーがこの世の思考のためにすべてが使われてしまうからだ。
しかし、現代人はたった一人になって、一日、10分ぐらいの時間を瞑想につかうこともむずかしい。

 カタルシス(浄化)は、すなわち心のエゴの死を果たすこと。浄化とは、魂(プシュケー)をできるだけ肉体から解放し、自性の光と戯れることだ。


 それと同様に見えざる光は単に体の内側にあるものだけでなく、単に体の外にあるだけのものでもなく山も川も大地も、すべての宇宙に存在する。およそ、精神のはたらきはすべてこの光にほかならないからだ。天地の輝きは、あらゆる広大な世界をみたしている。個の輝きもこの天地の輝きと一つであり、個の変化は万物の変化でありすべてが影響しあっている。

<第十一章完>

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